「ムーディーとサンキーはサンダーランドに移動し、そこでさらに大きな集会を開きました。その町で最大のホールが使われました。
二人はニューキャッスルでも大集会を開きました。そこで彼らは賛美歌集を発行し、後にアメリカに帰国してからも同様の賛美歌集を発行しました。
二人はエジンバラでも連続集会を開きました。
クリスタル・パレスの最後の集会では、会場が人々がいっぱいになり、ムーディーは中に入れず、外にはまだ2万人ないし3万人が残されていました。
ムーディーは辻馬車の座席から大群衆に説教し、聖歌隊は近くの小屋の屋根から歌をリードしました。
そのクリスタル・パレスは救いを求める人々でいっぱいになり、建物の外にも、まだ約2千人の救いを求める人々がいました。
ムーディーは、エジンバラでは一度に約3万人の人々に語り、グラスゴーでは一度に約4万人の人々に語りました。
その他、リバプールにおける子どもたちのための集会では、約1万4千人の子どもたちが出席し、ロンドンでの最後の集会では、600人を越える奉仕者が出席しました。…
彼は1899年に亡くなるまで伝道集会を続けました。
一億人もの人々がムーディーの口から福音を聞いたと言われています」(本書より)
ただし、D・L・ムーディーは、分け隔てなく一人一人のたましいを愛した個人伝道者でもありました。
R・A・トーレー師はこう記しています。
「レイノルズ氏は、ムーディーが、土地不法占拠者たちの掘っ立て小屋の中で座っているのを見ました。
そこに、一人の有色人種の少年が、ひざまずいていました。
片手に、獣脂のろうそくを一本持ち、もう一方の手に聖書を持っていました。
ムーディーは、聖書のある箇所の語のつづり字を示して(というのも、その時、その少年は文字があまり読めなかったからです)、その何も知らない有色人種の少年をキリストに導こうとしていました。…」(本書より)
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